描いていた理想と自分の実力とのギャップを前に、
“自分には向いていないんじゃないか”と、
どんどん自信を失っていきました。
久本は、いつも飲みの席を、
ワーっと沸かしてくれるムードメーカーでした。
でも、笑いは、その場限りで、
「その面白さが舞台に出ればねー」と言われて、
寂し気な表情を浮かべていました。
ある日、久本とお酒を飲んでいると、
突然、「柴田、10年先を見てろ。10年先に変わる」
と言いだしました。
私は思いました。
「あー、この人は、もう駄目だ。
ついにお酒に逃げてしまった」と(笑い)。
でも、その頃から、久本が変わり始めたんです。
毎日、すごく楽しそうで、稽古でも、どんどん
笑いに磨きがかかっていきました。
その勢いに引っ張られるように、
久本と組んだ漫才形式の演目が大当たり。
雑誌に“今年最高のコメディエンヌ”
と取り上げられました。
それから、劇団が注目されるようになり、
お客さんは倍増。テレビ番組のレギュラーをはじめ、
映画、ドラマ、CM、雑誌の取材と、
仕事が舞い込んでくるようになりました。
いよいよ、これからという時、なぜか、
私は深く落ち込むようになりました。
バイトなしで生活が送れるようになり、
無我夢中で頑張れるはずなのに、
毎日が楽しくないんです。
自分の中に残っていたのは、
不平、不満、いじけ、妬みでした。
素直に笑うこともできなくなり、
劇団でも孤立していきました。
私は、「こんな劇団辞めて、芝居も辞めて、
たった一人で生きてやる」と、強がりました。
でも、実際の私は、泣き虫で、寂しくて、
不安で、どうしたらいいのか分からない。
表面では、突っ張っているけれども、
心はボロボロでした。
何より、明るく笑っている人が
うらやましかったんです。
ある日、仕事を終えた私は、
なぜか、久本に電話をいれていました。
「どうして久本はそんなに元気なの?」。
すると久本が、緊張した声で、
「ソウカガッカイに入ったから」
と、私に告げました。
少し前だったら、私は「辞めた方がいい」と、
突っぱねていたかもしれません。
なぜなら、宗教をする人は、
「頼る心」のある人。
宗教は価値観を一つに縛るものだと思っていました。
それからしばらくして、仕事の移動で、
久本と並んで座る機会がありました。
すると、私に見えるように、おもむろに新聞を広げてきました。
すると、急に「太陽」という文字が飛び込んできたんです。
「これ何?」って聞くと、緊張した声で、
「聖教新聞、池田先生のスピーチ」と言って、
新聞を貸してくれました。
読ませてもらうと、
“自分が太陽となって、他の人を明るく照らしていきなさい”
って書いてありました。
その言葉に、私は、
「池田先生という方は、どうしてこんなに優しいんだろう」
と思いました。
これまで、いろいろ自己啓発本を読んできましたが、
これほどまでに、温かい心に包まれ、
胸にストンと落ちたことはありません。
「この方の言葉だったら、もっと耳を傾けてみたい」。
久本から聖教新聞をもらい、池田先生の言葉に触れる中で、
少しずつ宗教のイメージが変わっていきました。
何より、日に日に変わっていく久本の姿を目の当たりにし、
この仏法の力を信じざるを得なかったんです。
「信心をすれば必ず変わる」。
久本の言う「変わる」ということが、
当時は、何を意味するのか分かりませんでした。
でも、誰に何を言われようと、
自分を変えるにはこの方法しかない。
そう思い、私は信心を始めました(87年入会)。
創価学会に入り、まず一つの変化がありました。
題目を唱えていると、あれだけ落ち込んでいた心が、
スッと晴れていくんです。
“あっ、「変わる」ってこういうことなのかもしれない”
――少しずつ見える世界が輝いていきました。
そして、明らかに以前と変わったのが、
「粘り強さ」でした。
それは、単に最後まで頑張るという根性論的なものではなく、
必ず道は開かれるという確信からくる粘り強さです。
今までは、大きな壁が現れるたびに、
猪突猛進にぶつかり続けてきた私が、
いろんな角度から、その壁を見つめられるようになりました。
祈りの中で、幅広い視野から物事の本質を捉え、
打開していけるようになりました。
人との接し方も、ずいぶん変わりました。
今までは、思うようにいかない仕事の焦りや失敗を
他人のせいにすることがあり、時には、
人間関係がギスギスすることもありました。
そんな時は、心のシャッターを閉ざしていた私ですが、
題目をあげると、それが自動で開かれて、
自然と人間関係が良くなっていきました。
すると、どんどん素直な自分になれる。驚きでした。
そして、仏法の「桜梅桃李」という言葉を知り、
人生の捉え方が変わりました。
桜は桜。梅は梅。桃は桃。李は李。
それぞれが、必ず自らにしかない花を咲かせる。
花開く時期が違っても、必ず使命の花は咲く――
いつも私を前向きにさせてくれる大好きな言葉です。
しかし、信心したからといって、
全てが順調にいくわけではありませんでした。
浮き沈みの激しい世界。
ある時、仕事がピタッと途絶えたことがありました。
“ここが才能の限界なんだろうな。
結局、この世界には向いてなかったんだろうな”
と、悲観する自分がいました。
そんな時、私に声を掛けてくれたのが地区の同志でした。
「時間がある分、今のうちに目いっぱい、
福運を積んでおきましょうね」と励まし、
学会活動に引っ張っていってくれました。
本当なら、仕事が無く、つらい日々を過ごしていたかもしれないなか、
学会活動に励むことで、生命の充実した日々を送らせていただきました。
そうした頃、池田先生が出席された会合
(92年、杉並・中野区の合同総会)の前座で、
私と久本とで漫才をする機会をいただきました。
池田先生は、「漫才、面白かったよ!
妻と一緒に見て、おなかを抱えて笑ったよ」
「大丈夫。女優さんだよ。悲嘆も、悲観もいらないよ。
感傷すらいらないんです。希望だけです。
楽観主義でいくんだ。希望の女優になるんだよ」
と励ましてくださいました。
“そうだ、試練は誰だって訪れる。
どんな苦難にも負けない自分をつくろう。
希望の女優になろう”――この日の決意から、
再び人生の車輪が回り始め、先生が「大丈夫」
とおっしゃってくださった通り、仕事も私生活も
充実していくようになりました。
信心をしていても、一喜一憂したり、
惰性に流されそうになることもあります。
私だって、何度もそういう経験をしてきました。
そんな私たちに、池田先生は、
いつも勇気の光を注いでくださり、
時には、いましめの言葉を通して、
人生を勝利の軌道に導いてくれています。
これほどまでに優しく、
弟子の幸福を願ってくださる
人生の師匠をもつことができた。
これが、創価学会に入り、私が得た最大の喜びです。
再び安定した生活が送れるようになった頃、
突然、母からの電話が鳴り、「帰ってきてくれ」
とのこと。
母は、決して弱音を吐く人ではなかったので驚きました。
実家に戻ると、母の全身に、紫色の斑点ができていました。
病名は、骨髄異形成症候群。危ない状態でした。
題目をあげながら、いろいろ考えました。
私は、信心を始めてから、毎日が充実して、幸せいっぱい。
だけど、自分の母親が苦しい時に、何もしてあげられていない。
今の自分がいるのは、母のおかげなのに。
私に何ができるのか、と。
今こそ、ちゃんと信心の話を伝えようと、心に決めました。
といっても、実はそれ以前にも話をしたことがあります。
その時は、話が進むにつれ、母の顔色が見る見る変わり、
「宗教の話なんか二度とするな!」と。
まるで鬼の形相でした。
そこから、信心の話は避けていました。
でも、今回ばかりは、私も引けないと話を繰り返す中、
母が題目を唱えてくれるようになりました。
すると、ある日、「ちょっと教えてくれ」と言うんです。
「なんで南無妙法蓮華経って言うと、こんなに頑張ろうと思うが(のかな)?」
「病なんかに負けてたまるか。絶対に頑張ろうって思うんよ」と。
その後、病院の先生に呼ばれて行くと、
「不思議なことが起きています」と。
異常を示していた数値が、2週間で正常に戻っているということでした。
退院後、私は、ここが勝負どころだと、
「お母さん!」と話を切り出しました。
母は、私の言葉を制止し、
「みなまで(それ以上)言うな!」と。
“また鬼の登場か”と身構えていると、
母が急に、はらはら涙を流しながら、
「池田先生っていう人は素晴らしい人だねー」
と言うのです。
鬼の目にも涙とは、このことをいうのでしょう。
母は、私が渡していた池田先生の言葉や著書を読んで、
病に立ち向かう勇気をもらっていたようです。
「私は、あんたに言われて信心するわけじゃない。
池田先生を信頼して、信心をさせていただきます」
と、99年に入会。
おかげさまで、母は86歳の今も、
元気に学会活動をし、謡とお茶の先生をやっております。
人生は一つの「線」です。
自分という一つの「点」が、さまざまな縁に触れて、
あっちに行ったり、こっちに行ったり、常に変化をし、
自分だけの「線」ができあがっていきます。
時には、考えられないような試練に出くわしたり、
何が起きるかわからないのが人生です。
だからこそ、青年の皆さんには、
とにかく自分がやりたいことをまっすぐ貫き、
一生懸命、生き抜いてほしいと思います。
そうすれば、自分が思ってもいないような面白い人生が、
必ず開かれていきます。
苦労を惜しまず、社会に飛び込み、
最高の人生の軌道を描いていってください。
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