「生命の因果」
「人生の幸、不幸」
――これらについて人が真剣に考え始めるのは、
多くの場合、自身が切実な不幸にあったときではないだろうか。
何事もない安穏なときには、
なかなか人生の重大事には思いいたらない。
その意味でも、苦難こそ、
より深き人生への大切なステップなのである。
また、そうしていかなければならない。
もとより、何ら苦難もなき人生など、ありえない。
幸福そうに見える生活も、裏返せば、
それが不幸を感じる因となる場合が、人生にはあまりにも多い。
そのことは、経験を積み、
年輪を重ねるほど、ありありと見えてくる。
たとえば、祝福されて結婚しても、
子どもが病気で生まれてくる。
経済が行き詰まる。
火事や事故、離婚や一家の不和、人間関係のもつれなどで、
生涯苦しむ場合もあるかもしれない。
まさに凡夫には、“一寸先は闇”である。
不幸など自分には関係ないことだなどと
断言できる人はいないであろう。
平穏無事なら無事で、
年齢とともに、むさしさがつのってくる。
忙しそうに充実して動いているようであっても、
自分を見つめることができず、さびしさ、わびしさから
逃げ続けているにすぎない人もいる。
笑顔の底に悲しみがある。
楽しさの後を空虚さが追う。
苦しみ、悩み――
それが避けられない人生の現実である。
しかし、それでも人間は生き続けていかなければならない。
では、どう生きるのか。
どう苦しみを真実の歓喜へと変えていかれるのか……。
この万人にとって最大にして根本の課題を解決したのが、
日蓮大聖人の仏法なのである。
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