恩師に学ぶ

人生の目的は何か。
幸福である。

仏法の目的も、信心の目的も、
幸福になることである。

大聖人は、
「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり
経に云く『衆生所遊楽』云云」(御書1143㌻)
――一切の衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱えるより外に、
遊楽はないのである。

経(法華経の寿量品)には
「衆生の遊楽する所」(創価学会版法華経491㌻)
とある――と仰せである。

あえて分ければ、「遊」とは、
人生を自在に生きていくこと、
「楽」とは、人生を心から楽しむこと、
といえるかもしれない。

強い生命力と、豊かな知恵があれば、ちょうど、
波があるから“波乗り”が楽しめるように、
険しい山があるから“山登り”が楽しめるように、
あらゆる人生の苦難も、楽しみながら乗り越えていける。

その生命力と、知恵の源泉が妙法であるがゆえに、
「南無妙法蓮華経と唱えるより外に、遊楽はない」
と仰せなのである。

現実は厳しい。
その厳しさに堂々と挑戦し、
生活のうえでも、職場、学校のうえでも、
家庭においても、堂々とすべてを勝っていく。
さらに勝っていく。

その「無限の向上」の原動力が仏法であり、信心である。

信心の「知恵」と「生命力」あるところ、
すべてを、いよいよ明るい方向へ、
いよいよ力強い方向へと向けていける。

観念ではなく現実に勝利また勝利できる。
そういうリズムに入っていけるのが、
賢明な真の信仰者である。

戸田先生は、幸福について、こう指導されている。
(昭和30年1月23日、西日本三支部連合総会。
『戸田城聖全集』第四巻。以下同じ)

「幸福というものについて、一言教えておきましょう。
それは、幸福には、絶対的幸福と相対的幸福という二つのものがある。
絶対的幸福を成仏というのであります」

「相対的幸福というのは、私は百万円の金がほしい、
わしはああいうきれいな奥さんをもらいたい、
わしはりっぱな子供をもちたい、ああいう家を建てたい、
こういう着物を買いたい、その願いが、一つ一つかなっていくのを
相対的幸福というのです」

「そういうような幸福は、あんまりたいしたものではない。
しかし、それを幸福なものだとみな思い込んでいる。
しからば、絶対的幸福というのは、なにものぞや。
絶対的幸福というのは、生きてそこにいる、
それ自体がしあわせなのです」

「絶対的幸福というのは、金にも困らず、健康もじゅうぶんである。
一家のなかも平和で、商売もうまくいって、心豊かに、
もう見るもの聞くものが、ああ、楽しいな、こう思う世界が起こってくれば、
この世は、この娑婆世界が浄土であって、それを成仏というのです」

「それは、なにものによって得られるか。
相対的幸福感から、絶対的幸福感へといかなければならん。
これは、この信心以外には、ほかの信心では絶対できないことです。

それを教えるのに、私は大わらわになっているのだから、
疑わずに信じて、そうして、そういう生活になってもらいたいと思う」
――と。

牧口先生は、
「『金をためたい、金ができた。
家がほしい、家ができた。
そこで酒を飲む、ぜいたくをする。
もうその先はわからない』。
このような種類の人は、人生の目的を知らない人である」
とよく話されていた。

そして、人生の目的について、
「最高の価値を創造して最大の幸福を獲得する、
それが人生の目的である」と明確に示されている。

「創価学会」という名称は、最高の価値を創造し、
最大の幸福を実現する団体、という意味なのである。

人生の目的は、最大の幸福、
すなわち絶対的幸福を実現することである。

絶対的幸福とは、時間がたっても変わることなく、
永遠に続くもので、外の条件に影響されることがなく、
生命の内からこみあげてくる幸福感といってよい。

世間的な地位や財産、満足等の一時的なものではない。
「法」にのっとって生き、「法」のうえでいかなる位を得ていくか。
その「生命の位」は、法とともに永遠である。
私どもは永遠の「生命の王者」として生きられるのである。

「病気や貧乏でも、幸せだと思えば幸せだ」という考え方もあるが、
生命の奥底からの実感であればともかく、観念でそう言ってもしかたがない。

「心の財」は「身の財」「蔵の財」となって現れてくる。
私は日々、皆さまの「裕福」「健康」「長寿」を、一生懸命、祈っている。
これからも一生涯、祈りに祈っていく。

皆さまが、「私の人生は幸福だった」「悔いがなかった」
「充実していた」と「所願満足」の一生を送られることが、
私の心からの願いである。

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